元気ですか〜!?
どうも、ろけねおです。
今回ご紹介いたします本は骨法の堀辺正史さんがお書きになった本でございます。

格闘新書
発行されたのが1991年なので、もう30年以上も前の本になります。
ちょうど、あの熱狂的な第2次UWFが崩壊した直後くらいでしょうか。
格闘技ブームが本格化する少し前の、プロレス界が大きく動いていた時代に出版された本ですね。
実は当時、ボクはこの本の存在を知りませんでした。
もし知っていても、著者の堀辺さんを少し胡散臭く感じていたし(失礼!)、毎週読んでいた週刊プロレスのターザン山本さんもそこまで好きではなかったので、きっと手に取ることはなかったでしょう。
でも、今になって読んでみたら、これが最高に面白い!
当時、大流行していたUWFをどうしても好きになれず、周りに合わせられない自分に悩んでいたボクの心を、スッと軽くしてくれるような内容だったんです。
この記事では、『格闘新書』から特に心に残った部分を引用しながら、ボクの感想を交えてご紹介したいと思います。
『格闘新書』の概要
『格闘新書』は、日本武道傳骨法の創始者である堀辺正史氏が、格闘技や武術、そしてプロレスについて独自の視点で鋭く切り込んだ一冊です。
ベースボール・マガジン社から1991年に発売されました。
単なる技術論にとどまらず、日本の文化や歴史的背景から格闘技の本質を解き明かそうとする試みが非常にユニークで、今読んでも全く色褪せない魅力を持っています。
日本の身体文化の謎を解く!踊りと武術の意外な関係
日本ではフォークダンスに該当する盆踊り、阿波踊り、佐渡おけさなど集団舞踏から能、神楽、日舞に至るまで手をつなぐということがない。(中略)原因は着物にあるという。一枚の布を体に巻いた形の和服では、どうしても足の動きが制限される。(中略)足による表現力は封じ込まれたも同然だから、勢い表現は手を主体としたものになる。だから、手をつないだりすれば手の表現がいきてこない。
格闘技の本の中で、いきなり日本の踊りの話が出てきて驚きました。
でも、これがすごく面白いんです。
堀辺さんによれば、踊りと格闘技は切っても切れない関係にあるとのこと。
着物を着ていた日本人は、足の動きが制限される代わりに、手の表現が非常に豊かになった。
これが、日本の武術の特性にも繋がっているというんですね。
柔術の基本技術は”手ほどき”であった。相手に手をつかまれた時、どうやって、その手を引き抜くか、というのが”手ほどき”の技術であり、のちに、この言葉は、物事の習い始めに意味する語彙に変じて、現在に至っている。
ボクたちが普段何気なく使っている「手ほどき」という言葉。
その語源が柔術にあったとは、目からウロコでした。
相手の手をどうにかする技術が、日本武術の根幹にあった。
それは、日本人が刀を腰に差していたからだとも書かれています。
相手の手をつかむという形は、刀を抜く、抜かせまいとする双方のコントロールテクニックとして理解すべきである。
なるほど、だから日本の武術は相手の手を掴んだり、掴まれた手をほどいたりする技術が発達したんですね。
日本人が手先が器用だと言われるのも、こうした歴史的な背景があるのかもしれないな、なんて思いました。
予言は外れた?サバットの未来と柔道のルーツ
今後「サバット」がテコンドー並みの人気を得ていく可能性は大いにある、と私は思っている。
本の中では、フランスの格闘技「サバット」が将来的にテコンドーのように人気が出ると予測されていました。
結果的に、テコンドーはオリンピック種目になりましたが、サバットはそこまでの知名度を得られていないのが現状です。
でも、こういう30年前の未来予測を読んで、今と比較するのも古い本を読む楽しみの一つですよね。
柔道についても、そのルーツは中国拳法にあるという声が根強い。
え、そうなの!?と、思わず声が出ました。
まるで『魁!!男塾』に出てくる民明書房の本に書いてあるような話ですが、堀辺さんは大真面目に考察しています。
柔道の起源に中国拳法の影響があったかもしれない、なんて考えるとワクワクしてきませんか?
「達人」の正体とは?嘉納治五郎の言葉に学ぶ本質
達人というのは一般には技をかける天才だと思われているが、実は、技のかかりやすい状態を作り出す天才なのだ
これは柔道の創始者、嘉納治五郎さんの言葉だそうです。
グッと心に響きました。
これって、格闘技に限った話じゃないですよね。
仕事でも何でも、自分が最大のパフォーマンスを発揮できる「状況」や「環境」を作り出せる人こそが、本当の達人なのかもしれません。
UWFはプロレスだった!当時言えなかったボクの本音
そして、この本の核心とも言えるのがUWFに対する痛烈な批判です。
これが、当時UWFにハマれなかったボクの心を本当に救ってくれました。
技自体の仕掛け、試合の展開は私の見るところ従来のプロレスを一歩も出ていなかったのである。
当時のUWFは、まるで「進化した新しい格闘技」のように扱われ、凄まじい人気を誇っていました。
ボクもその熱狂についていこうと、レンタルビデオ屋で片っ端からUWFのビデオを借りて観たんです。
でも、どうしても面白いと思えなかった。
従来のプロレスの方がよっぽど面白いと感じてしまう自分は、頭が固くて時代の流れについていけてないダメなファンなんじゃないか…とさえ思っていました。
堀辺さんは、そんなUWFを「結局はプロレスだった」とバッサリ斬っています。
この指摘は、今振り返れば完全に正しかったですよね。
この言葉を当時に読んでいたら、どれだけ気が楽になったことか。
そもそも「八百長」という表現は、ルールのあるスポーツの試合での不正に対して使われるべきで、プロレスに使うべきものではない。
当時、プロレスファンは世間の「プロレスなんて八百長だろ?」という言葉と戦っていました。
堀辺さんは、そもそもルールが明確に定められていないプロレスに「八百長」という言葉を当てること自体が間違っていると指摘します。
プロレスの面白さはルール制のなさにあるといってもよい。たとえば「反則」の全くないプロレスは、決して観客を満足させてはくれないのだ。
これには、膝を打ちました!
まさにその通りなんです。
ボクがUWFに乗れなかった一番の理由がこれだったんだと、30年経ってようやく気づかされました。
反則や理不尽な展開、予測不能な面白さこそがプロレスの醍醐味なのに、UWFはそれを排除してしまった。
だからボクには退屈に感じられたんですね。
『格闘新書』はこんな人にオススメ!
この本は、以下のような方にぜひ読んでほしい一冊です。
- 90年代のUWFブームに熱狂した、あるいはボクのように違和感を覚えていた人
- 格闘技や武術の、単なる技術論ではない歴史的・文化的な背景に興味がある人
- プロレスというジャンルの奥深さや魅力を再確認したい人
- あの時代のプロレス界の熱気をもう一度感じたい人
30年以上前の本ですが、その内容は全く古びていません。むしろ、総合格闘技が定着した今だからこそ、プロレスと格闘技の関係性を客観的に見つめ直すことができる良書だと思います。
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まとめ:プロレスが好きで良かったと再確認できる一冊
もし当時にこの『格闘新書』を読んでいたら、流行りのUWFを素直に「面白くない」と言えずにモヤモヤしていた気持ちが、きっと晴れていたと思います。
UWFを好きになれない自分がおかしいんじゃないか、という小さな劣等感。
それを解消するために、無理してUWFのビデオをたくさん観ていたあの頃の自分に「お前は間違ってなかったぞ」と教えてあげたいです。
ちなみに、ボクは第2次UWFにはハマれませんでしたが、その後に分裂したUWFインターナショナルやRingsは大好きでした。
Uインターはエンタメ性の高い、まさに「プロレス」でしたし、Ringsはキャラクターの立った選手たちが織りなす異種格闘技戦のような雰囲気が最高に面白かったんです。
結局、ボクは「プロレス」が好きなんですよね。
『格闘新書』は、そんな当たり前のことを再確認させてくれる、プロレスファンにとっての宝物のような一冊でした。
昔のプロレスファンはもちろん、今の格闘技ファンが読んでも新しい発見があるはずです。
ぜひ手に取ってみてください。
それではまた。
ありがとう!
