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【読書感想文】 「オタク」はもう死んだ?岡田斗司夫が『オタクはすでに死んでいる』で伝えたかったこと

元気ですか〜?!

どうも、ろけねおです。

今回はご紹介いたします本は、日本のプロデューサー、評論家、文筆家、実業家、企画者、講演者の岡田斗司夫さんの書いた本です。

オタクはすでに死んでいる

自分のことを、もしかしたら「オタク」なのかもしれない。

ボクは比較的そう思って生きてきました。

しかし、岡田斗司夫さんの『オタクはすでに死んでいる』を読んで、ホンモノの「オタク」に比べたら自分など全然たいしたことがなかったと思い知らされました。

どうやらボクは、かなり薄味の「オタク」だったようです。

ボクは著者の岡田斗司夫さんが好きで、以前にイベントや講演会へ足を運んだこともあります。

岡田さんの独特なものの捉え方や思考のプロセスに魅力を感じていた時期があり、この本も「何か新しい視点が得られるかもしれない」と期待して手に取りました。

正直に言うと、「オタク」そのものには特別な興味があったわけではありません。

ですが、あの岡田さんが語る「オタク」論なら、きっと面白いはずだと信じていたのです。

オタキングが「オタクの死」を宣言した本

本書『オタクはすでに死んでいる』は、2008年に新潮社から出版された新書です。

全190ページと読みやすいボリュームにまとめられています。

著者の岡田斗司夫さんは1958年大阪生まれ。アニメ・ゲーム制作会社ガイナックスの設立者として知られ、「王立宇宙軍―オネアミスの翼」や「ふしぎの海のナディア」といった歴史に残る名作を世に送り出した人物です。

そして何より、「オタキング」の名で広く親しまれてきた、まさにオタクの王様のような存在でした。

そのオタキング自身が、「オタクは死んだ」と語るのがこの本なのです。

「オタク」は世代によって定義が違う

本書によれば、ボクは「オタクの第2世代」と同世代にあたるそうです。

「オタク」と一口に言っても、世代によってその言葉から受ける印象はまったく違います。

印象どころか、その定義自体が異なるのだと著者は言います。

言葉というものは、多くの人に使われすぎると、本来持っていた意味が薄れてしまう傾向にあります。

例えば、「カリスマ〇〇」という言葉。

一時期、あちこちで使われすぎた結果、「カリスマ」の持つ重みがすっかり失われてしまいました。

本来「カリスマ」とは、人々を強く引きつけ、信服させるような特別な人格的魅力を指す言葉です。

ごく限られた人にしか使えないはずでした。

それがあちこちで「カリスマ美容師」「カリスマ店員」と使われるうちに、「ちょっと人気がある人」くらいの意味合いに格下げされてしまったように感じます。

「美人すぎる〇〇」なども似ていますね。

あまりに多用されるので、「確かに美人かもしれないけど、『すぎる』ほどではないのでは?」と感じるケースが増えました。

軽くなった「オタク」という言葉の行く末

「オタク」という言葉もまた、あまりにもメジャーになりすぎました。

その結果、本来「オタク」が持っていたはずの意味ではなく、「普通の人より少し何かに夢中になっている人」を気軽に「〇〇オタク」と呼ぶ風潮が生まれました。

ボク自身もこの意味で「オタク」を使っていたフシがあります。

「オタク」という言葉がすっかり軽くなってしまった。

だから、本当の意味での「オタク」は死んでしまった――。

この本は、そうした現象について解説した一冊なのです。

もともと「オタク」という言葉は、「オタク」と「一般人」を明確に区別する境界線でした。

両者が交わったり、混ざり合ったりすることはなかったのです。

それがいつの間にか、一般人という大きな括りの中に「オタク」というカテゴリーが内包されるようになりました。

その結果、そもそも「オタク」という特別な人種は消えてしまったのだ、と。

言葉自体はこれからも使われ続けるでしょう。

しかし、その言葉が本来意味していた「オタク」は、もうとっくに死んでいますよ。

読んでみると、確かにそんな気がしてきます。

本書の核心:「オタクの死」は「昭和の死」

本書のテーマは、単なる「オタクの死」に留まりません。

「オタクと昭和の死」について語られています。

著者は2006年5月24日、東京新宿のロフト・プラスワンで開催されたトーク・イベント「オタク・イズ・デッド」で、「オタクはもう死んでしまった」と宣言しました。

オタキング自身によるこの発言は、当時、大きな衝撃をもって受け止められ、賛否両論の大激論を巻き起こしたそうです。

しかし、死んだのはオタクだけではない、と著者は続けます。

著者の分析によれば、オタクが成立するためには「高度消費社会」と「勤勉な国民性」という二つの要素が両立している必要がありました。

これはまさに「昭和後期型」、言い換えれば第二次大戦以降の日本という国そのものがオタクを生み出す土壌だった、ということです。

そのオタクが死んだということは、オタクを支えていた「消費社会」と「勤勉な国民性」の両方が失われてしまったことを意味します。

日本人は、消費や勤勉の先にある、誰も知らない次のステージに入ってしまった。

つまり、「オタクが死んだ」イコール「昭和は死んだ」ということになるのです。

この壮大な社会論こそが、本書の核心です。

なぜか「轟天号」に一番テンションが上がる

「オタク」そのものには特別な興味はなかったのに、岡田さんの本だからという理由で読んでみました。

しかし、率直に言って、これまで読んできた岡田さんの著作の中では、あまり楽しめませんでした。

この本を読んでボクが一番テンションが上がったのは、なんと岡田さんの若い頃の写真で、彼が手に持っていたのが(多分)「轟天号」だったことです。

子供の頃、ボクは轟天号が登場する映画『惑星大戦争』を観て、船の先端に付いているドリルにシビレました。それ以来、乗り物やロボットにドリルが付いていると、無条件に「カッコいい!」と思ってしまうようになったのです。

おかげで、『仮面ライダーフォーゼ』でドリルスイッチを起動させた姿を初めて見たときは、やはりテンションが上がりました。

ドリルというデザイン要素が持つ抗いがたい魅力について、改めて考えさせられた瞬間です。

ボクが本書を楽しめきれなかった理由

「オタクの死」を説明するために、本書では「SFの死」というテーマが語られます。

しかし、ボクはSFに詳しくないため、当然ピンときませんでした。

「SFっていつの間に死んでたの?」

「最近SFって言わないの?」と、途中からそればかり気になってしまいました。

この本を深く味わうには、ボクはあまりにも無知過ぎたのです。

まるっきり「オタク」ではありませんでした。

ボクが岡田さんの本の魅力として感じているのは、独自の「岡田理論」のキレ味です。

ボクの想像もつかない方向へどんどん議論が展開していき、しかもそれが(強引に見えても)しっかり理屈をこねくり回されていて、最終的には「なるほど」と納得させられてしまう。

そこが楽しいのです。

ところがこの本に関しては、その「理屈をこねくり回した感」があまり感じられませんでした。

もしかすると、それはボクが「オタク」についての前提知識をほとんど持っていなかったことが大きいのかもしれません。

岡田さんの理論を楽しむには、ある程度の共通認識や土壌が必要だったのでしょう。

岡田さんが「オタキング」と呼ばれていた頃のことをほとんど知らない、というのも大きかったと思います。

もっと「オタク」について知ってから読めば、まったく違った印象になったはずです。

『オタク学入門』から読むべきだったのか?

そう考えると、まず先に『オタク学入門』を読んでおくべきだったかな、と今更ながら反省しています。

何しろ「入門書」ですから。

しかし、入門書を書いた張本人(岡田さん)が「オタクは死んでいる」と断言しているのに、今からそれに入門するのもどうなのだろうか…とも思えてきます。

結局のところ、「オタク」に関しては、もういいや、という結論に至りました。

「オタクではなかった」と気づけた収穫

それでも、この本を読んで得られたものはありました。

「言葉の意味は時代とともに変化する」という当たり前の事実を、具体的な事例で鋭く示してくれたことです。

「オタク」という一つの言葉を通じて、日本社会の大きな変化を語るという試みは、やはり岡田さんらしい深い視点だと感じます。

ボク自身が「オタク」の変遷をリアルタイムで体感していないため、本書の核心部分(オタクの死)には共感しづらかった。

それでも、「言葉が軽くなる」という現象については、非常に納得できました。

「カリスマ」や「美人すぎる」といった例えは、ボクたちの日常でも実感できる変化だからです。

著者が語るように、「オタク」は昭和という時代が生み出した特別な存在だったのでしょう。

その「オタク」が死んだということは、時代が大きく、そして不可逆的に変わってしまったことの証なのかもしれません。

最近は「オタク」ではなく「ヲタ」と表記されることも多くなったようで、もはやボクがなんとなく知っている気になっていた「オタク」とは、まったく別のものになっているようです。

他の岡田斗司夫著作

ボクが岡田さんの本で、この本以外で感想を書いているのがあります。

こちらは何の予備知識も必要のない、ボクのような浅い人間でも楽しめるものになっているので、ぜひ。

まとめ:こんな人におすすめしたい

タイトルにある通り「オタクはすでに死んでいる」のなら、死んでしまったものについて、ボクのような部外者が今さら深く知る必要はないのかもしれません。

著者自身がその死を宣言したのですから。

むしろ、この本を読んだことで「ボクは(本書の定義する)オタクではなかった」と明確に確認できたことが、一つの大きな収穫だったと感じています。

自分の立ち位置がはっきりしたという意味で、読んでよかったと言えます。

この本は、以下のような方には深く刺さる内容だと思います。

  • 「オタク」の歴史や変遷に詳しい人
  • 岡田斗司夫さんが「オタキング」として活躍していた時代を知っている人
  • 昭和後期(1970〜80年代)の文化に思い入れのある人

逆に、ボクのように「オタク」について漠然としたイメージしか持っていない人には、少しハードルが高いかもしれません。

ただ、「言葉の意味が時代とともにどう変わっていくのか」という文化論としては、誰が読んでも考えさせられる内容であることは確かです。

岡田さんの他の著作を楽しめた人なら、一つの視点として読んでみる価値はあるでしょう。

ただし、あの独特な「岡田理論」の真骨頂を味わいたいなら、もしかすると他の著作の方がより楽しめるかもしれません。

それではまた。

ありがとう!

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