元気ですか〜!?
どうも、ろけねおです。
今回ご紹介いたします本は日本のフランス文学者であり、武道家(合気道凱風館館長)、翻訳家、思想家、エッセイストの内田樹さんのお書きなった本でございます。
先生はえらい
ボクが「内田樹(うちだ たつる)」さんという名前を意識し始めたのは、著名な方々が彼の名前を口にするのを耳にしたのがきっかけでした。
岡田斗司夫さんの著書やYouTubeで、その思考の面白さをたびたび目にしたり、武田鉄矢さんがラジオ番組『今朝の三枚おろし』で尊敬する人物として名前を挙げていたり。
「この人、いったいどんな人なんだろう?」
そう思って書店で手に取ったのが、今回ご紹介する『先生はえらい』という一冊でした。
『先生はえらい』。
すごいタイトルですよね。
今この時代に、真正面からこんなことを言う人はなかなかいません。
むしろ、「先生はえらい」なんて言ったら、「何を時代錯誤な」と反発を買いそうです。
でも、ボクはその直球すぎる(あるいは、あまりにも時代に逆行しているように見える)フレーズに、逆に強く惹かれてしまいました。
そして、この本を読み終えた今、ボクの頭の中は「なんだったんだ、コレ…」という心地よい混乱と、言葉にしがたい不思議な余韻に満たされています。
今回は、そんなボクの不思議な読書体験について、お話ししたいと思います。
『先生はえらい』は、どんな本?
この本は、筑摩書房の「ちくまプリマー新書」シリーズの一冊として、2005年に刊行されました。
もともとは中高生に向けて書かれた、いわば「入門書」という位置づけです。
著者の内田樹さんは、1950年生まれのフランス現代思想の研究者。
神戸女学院大学で長く教鞭をとられていた方です。
それと同時に、合気道六段の武道家でもあり、ご自身のブログ「内田樹の研究室」を拠点に、教育、政治、社会、メディアなど、本当に幅広いテーマについて鋭い論考を発信し続けています。
さて、この『先生はえらい』の内容は何か。 一言でいえば、これは「師弟論」です。
「なんだ、やっぱり教育論か」と思った方、ちょっと待ってください。
ボクらがイメージする「理想の教師像」とか「効果的な指導法」といった、いわゆる「教育論」とは、まったく、まったく違うんです。
内田さん自身が「著者からひとこと」で、この本の趣旨をこう書いています。
この本は「『先生はえらい』だって、『えらい人』のことを『先生』ていうんだもん」という同語反復(トートロジー)を断固として主張する本です。
……どうです?
わかったような、わからないような。 つまり、こういうことです。
この本は、「こういう人が『えらい先生』だ」という基準を示す本(認知的な話)ではありません。
もちろん、「先生の言うことを聞きなさい」という道徳やルールを押し付ける本(政治的な話)でもありません。
そうではなく、「あなたが『この人はえらい!』と心から感じ入った人、それこそが、あなたにとっての『先生』なのだ」という、ある意味では当たり前すぎる視点から、師弟関係というものを解き明かそうとする本なんです。
「えらい人=先生」。
この同語反復を、内田さんは様々な角度から、手を変え品を変え、論じていきます。
読んでみた感想:ボクは完全に混乱した「五里霧中系エッセイ」
では、実際に読んでみてどうだったか。 正直に告白します。
ボクは、読みながら完全に混乱しました。
タイトルは『先生はえらい』です。
テーマは「師弟論」のはずです。
なのに、読み進めれば読み進めるほど、話がどんどん脱線していくんです。
しかも、その脱線が意図的というか、確信犯的。 まるで読者を煙に巻くように、次から次へと話題が移り変わっていきます。
目次をちょっと見てみてください。
「恋愛と学び」「うなぎ」「沈黙交易」「あべこべことば」「沓(くつ)を落とす人」「憑依(ひょうい)と感染」……。
どうです? これだけ見て、「師弟論」の本だと思うでしょうか。
ボクは思いませんでした。
例えば、「うなぎ」の章。 ここでは、師匠が弟子に「うなぎを焼く技術」を教える場面を例に、技術の継承について論じられます。
でも、それは「こうやって教える」というノウハウの話じゃない。むしろ、「本当に大事なことは、言葉では教えられない」という方向へ話が進んでいくんです。
かと思えば、「沈黙交易」の章では、顔も言葉も知らない相手と行われる古代の交易(お互いが品物を置いていき、合意すれば持って行く)を例に挙げ、直接的なコミュニケーションの外側にある「信頼」や「学び」について語られます。
読んでいる最中、「あれ? 今、何の話をしてたんだっけ?」と、ボクは何度も自分の現在地を見失いました。 森の中を歩いていたら、いつの間にか霧が出てきて、自分がどっちに向かっているのかわからなくなった。
そんな感覚です。
でも、ここがこの本の最大の不思議ポイントなんですが……
頭がこんがらがっているのに、なぜか「面白い」んです。
普通、話が理解できなかったり、論理が追えなかったりすると、読書って苦痛になりますよね。
「もういいや」と本を閉じてしまうはずです。
でも、この本は違いました。
よくわからないのに、楽しい。
文章に不思議なリズムと遊び心があって、内田さんの思考のプロセスに、まるで無理やり付き合わされているような感覚。
迷子になったのに、なぜか「今日の散歩は楽しかったな」と思えるような、そんな奇妙な読後感なんです。
あとがきによれば、内田さんはレヴィナスやラカンといった難解な哲学者の理論をベースに、「『えらい』とはどういうことか」を構造分析しているそうです。
ボクには、その構造分析がどう展開されているのか、正直、サッパリわかりませんでした。
でも、それでいい。
「わからなくてもいいんだ」と、なぜか思えました。
わからないなりに、何かとてつもなく大事なことに触れているような、そんな手応えだけが残ったんです。
「先生」とは誰のことか? それは「ボクら」が決めること
さて、混乱した頭で、あらためてタイトルの『先生はえらい』に立ち返ってみます。
正直に言うと、読んだ結果、ボクは「うーん、学校の先生って、そんなに偉かったっけ?」と思ってしまいました。全国の先生がた、本当にごめんなさい。
でも、ボクらが普段使う「先生」という言葉には、いろんな意味が含まれていますよね。
学校の教員、医者、弁護士、政治家……。これらは「職業」や「肩書き」としての「先生」です。
一方で、「師匠」とか「メンター」と呼ばれる存在もいます。 自分が心の底から「この人みたいになりたい!」「この人の背中を追いたい!」と憧れ、その技術や生き様を盗みたいと願う相手。
こういう存在に対して、ボクらは確かに「この人はえらい」「この人はすごい」と感じます。
内田さんが言いたかったのは、きっとこういうことなんだと思います。
「先生」という存在は、誰かが客観的に「はい、この人は先生です」と認定するものではない。
ボクたち自身が、誰かに対して「この人はすごい」「この人から学びたい」と強く感じた瞬間、その人こそが、ボクにとっての「先生」になるんだ、と。
そう考えると、学校の先生だけが「先生」じゃない。
肩書きがあるから「先生」なのでも、立派なことを言うから「先生」なのでもない。
近所のおじさんかもしれないし、歴史上の人物かもしれない。
あるいは、マンガのキャラクターかもしれない。
自分が心から尊敬し、「この人から何かを学び取ろう」と能動的に関わった相手、それが自分だけの「先生」なんです。
モノの見方ひとつで、世界はまったく変わって見える
この本を読んでボクが一番強く感じたのは、「見方を変えると、世界は変わる」という、とてもシンプルな真実でした。
自分が「この人はすごい!」と尊敬の念を持って接すれば、その人は自分にとって計り知れない価値を持つ「先生」という存在になります。
でも、同じ人でも「別に、ただの人でしょ」と無関心でいれば、その他大勢の「通行人」と何も変わりません。
相手は同じ一人の人間なのに、ボク自身の心の持ちようひとつで、相手の存在の意味が180度変わってしまう。
これって、「先生」と「弟子」の関係に限った話じゃないですよね。
ボクたちは日常のあらゆる場面で、無意識のうちに「これは価値がある」「これは価値がない」と判断を下しています。
でも、その判断基準は、本当に絶対的なものなんでしょうか?
もしかしたら、ほんの少し見方を変えるだけで、今まで「価値がない」と切り捨てていたものの中に、とんでもない「お宝」が隠されているんじゃないか? 道端の石ころだと思っていたものが、実はダイヤモンドだった、なんてことがあるんじゃないか?
この本は、「師弟論」というテーマでありながら、ボクたちの「世界の認識の仕方」そのものを揺さぶってくる。
そんな深さを感じました。
読み返せばわかる? でも、たぶん面白くなくなる
誤解のないように言っておきますが、この本は決して「デタラメ」な本ではありません。
繰り返し読めば、内田さんの論理展開や、引用されている哲学者の理論についても、理解は深まるはずです。
ボクがわからなかっただけです。
「うなぎ」も「沈黙交易」も、きっと「師弟論」の核心に繋がる重要なメタファーなんでしょう。
じっくり読み込めば、その構造は整理できるに違いありません。
でも……。 それをやってしまったら、ボクが初読で感じた「この混乱が楽しい」「わからないけど面白い」という感覚が、消えてしまいそうな気がするんです。
わかってしまったら、この本の魅力は半減するんじゃないか。
そんなジレンマがあって、正直、読み返すのが怖い。
この「わからなさ」は、たぶん一度きりの、とても贅沢な体験だったんじゃないかと思うんです。
まとめ:「わからなさ」を楽しめる人にこそ読んでほしい、クセのある一冊
『先生はえらい』は、わかりやすい本が好きな人には、たぶんおすすめしません。
「なるほど!」とスッキリする明快な結論や、すぐに役立つノウハウを求める人には、物足りないどころか、ストレスを感じる可能性すらあります。
でも、「わからなさ」そのものを楽しめる人には、強烈に刺さるかもしれません。
思考の迷路に迷い込み、著者のトリッキーな思考実験に振り回されながら、気がついたら「学ぶって、なんだろう?」「尊敬って、なんだろう?」と、答えのない問いについて考えさせられている。
そんな読書体験が好きな人、自分のアタマでじっくり考えるのが好きな人には、ぜひ手に取ってみてほしいです。
岡田斗司夫さんや武田鉄矢さんが注目するだけあって、唯一無二の独特な魅力を持った本であることは間違いありません。
読後に「結局、何が言いたかったの?」と思うかもしれません。
でも、たぶん、それでいいんです。
その「?」こそが、この本の最大の価値。 そこから自分なりに「先生とは何か」「自分にとっての『えらい人』は誰か」を考え始めることこそが、この本の真の楽しみ方なんだと、ボクは思っています。
それではまた。
ありがとう!