元気ですか〜!?
どうも、ろけねおです。
今回ご紹介いたします本は、ショーペン・ハウアーとかショウペン・ハウエルとか呼ばれる方の書いた読書について書かれた本です。
読書について
「文庫本だし、薄いからすぐに読めるだろう」
本屋でショーペンハウエル『読書について 他二篇』を見つけたとき、ボクは正直なところ、そんな軽い気持ちで手に取りました。
ところが、その予想はページをめくり始めてすぐに、見事に裏切られることになります。
内容は驚くほど濃密で、哲学的な思索に満ちており、決して読みやすいものではありませんでした。
著者のアルトゥール・ショーペンハウアーは1860年に亡くなった19世紀ドイツの哲学者。
つまり、この本に書かれているのは、今から150年以上も前の思想です。
そのためか、訳文特有の硬質な表現が随所に現れます。
もちろん、当時の文章としてはこれが普通だったのでしょうが、現代に生きるボクたちにとっては、少々骨が折れる読書体験となりました。
読み終えた後には、「もっと現代的な、平易な言葉で訳された版もあるのではないか」と、つい検索してしまったほどです。
しかし、読み進めるうちに、この本の持つ本当の価値に気づかされることになりました。
『読書について 他二篇』の基本情報
まずは本書の基本的な情報と、著者について簡単にご紹介します。
- 出版社: 岩波書店
- 発売日: 1983/7/1
- 文庫: 160ページ
- ISBN-10: 4003363221
- ISBN-13: 978-4003363225
著者:アルトゥール・ショーペンハウアーについて
ショーペンハウアーは、主著『意志と表象としての世界』で知られるドイツの偉大な哲学者です。
カントの思想を土台に、プラトンや古代インド哲学からも影響を受け、独自の思想を展開しました。
当時の哲学界の主流であったヘーゲルの影に隠れがちでしたが、彼は自らの哲学を貫き、ニーチェをはじめとする後世の思想家たちに絶大な影響を与えました。
彼の思想の中でも特に重要なのが、「自分の頭で考える」ことの価値を説いた点です。
本書でも、その鋭い批判精神はいかんなく発揮されています。
本書は三部構成
タイトルの通り、本書はメインの『読書について』の他に、『思索』と『著作と文体』という二篇が収録された三部構成になっています。
今回ボクは、特に心に残った『思索』と『読書について』を中心に読み解きました。
古典を読む楽しさと難しさ
本書を読んで、ボクが感じたことをいくつかご紹介します。
訳者によって変わる哲学者の顔
読み終えてから調べてみると、本書には複数の出版社から、異なる訳者によるバージョンが出版されていることがわかりました。
そもそも著者の名前からして、「ショウペン・ハウエル」だったり「ショーペンハウアー」だったりと、表記が統一されていません。
これこそが、海外の古典を読む上での一つの楽しみであり、同時に難しさでもあるのでしょう。
同じ原書を元にしていても、訳者の解釈や言葉選びによって、読者が受け取るニュアンスは微妙に、あるいは大きく変わってきます。
読み比べたわけではないので断言はできませんが、もしかしたら他の訳書では、ショーペンハウアーがもっと穏やかな人物に感じられるかもしれません。
もちろん、原書であるドイツ語で読めるのが理想なのでしょうが、ボクにはその語学力がありません。
だからこそ、信頼できる訳者の言葉を頼りに、その思想の深淵に触れるしかないのです。
いつか他の訳書も手に取り、ショーペンハウアーという哲学者の異なる側面を発見してみたい。
そんな新たな読書の目標ができました。
『思索』は「考えるため」のプロローグ
本書の冒頭に収められている『思索』は、実質的に『読書について』のプロローグと言える内容です。
難解な言葉や、すぐには理解しがたい比喩表現も多いのですが、不思議と引き込まれ、面白く読み進めることができました。
この感覚は、以前に梅棹忠夫さんの名著『知的生産の技術』を読んだときの感覚に似ています。
文章自体は硬質で学術的なのに、その奥には著者自身のユーモアや、読者に「思考する楽しさ」を伝えようとする熱意が感じられるのです。
ショーペンハウアーも、きっと根は面白い人だったのではないか、そんな想像を掻き立てられました。
150年前の哲学者の「怒り」が現代に突き刺さる
そして、いよいよメインテーマである『読書について』です。
この章を読んで、ボクは衝撃を受けました。
なぜなら、ショーペンハウアーがとにかく「怒って」いたからです。
その怒りの矛先は、当時の読書界や出版業界に向けられています。
要約すると、「近頃の出版物や読書のあり方は、なっていない!」という痛烈な批判です。
彼は「いかになっていないか」を、これでもかというほど徹底的に、具体例を挙げて糾弾します。
(残念ながら、例に挙げられている人物のほとんどをボクは知りませんでしたが…)
しかし、彼の怒りの熱量だけは、ページ越しにヒシヒシと伝わってきました。
何も変わっていない、むしろ悪化している現実
ボクが最も衝撃を受けたのは、その批判の内容が、150年以上も前に書かれたとは到底思えないほど、現代の状況に酷似していたことです。
「世の中には読む価値のない悪書、言うなれば“アホな本”が多すぎるから気をつけろ」
これが、彼が最も伝えたかったメッセージの一つです。 読書に使える時間は有限なのだから、価値のない本に浪費すべきではない、と彼は断言します。
現代に目を向けてみましょう。出版物の量は彼の時代とは比較にならないほど増大しました。
もちろん良書も増えましたが、それ以上に、中身のない本や、単に時流に乗っただけの本も溢れかえっています。
さらに、スマホやSNSの登場により、現代人の可処分時間はますます奪われています。
そんな中で、私たちはどうやって「本当に読むべき本」を選べばいいのでしょうか。
ショーペンハウアーの警告は、時代を超えて、いや、時代を経たからこそ、より重く私たちの胸に響くのです。
書評サイトやインフルエンサーにも要注意
では、どうすれば“アホな本”を避けられるのか。
その道標として「書評」があります。 しかし、ショーペンハウアーはそれすらも見抜いていました。
「書評を書く人間にも様々な思惑があり、必ずしも正しく本が評価されているとは限らない。だから注意しなさい」
これもまた、現代にそのまま当てはまります。
アフィリエイト目的で過剰に賞賛されたレビュー、企業案件であることを隠したインフルエンサーの投稿。
私たちは、本を選ぶための「書評を選ぶ」という、さらなる注意深さを求められているのです。
価値ある読書体験にたどり着くのは、決して簡単なことではない。
この根源的な問題は、150年経っても解決されていません。
だからこそ、私たちは自らの頭で考え、問い続けなければならない。
ショーペンハウアーは、そう語りかけているように思えました。
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まとめ:古典は「思考の羅針盤」である
この本を読んでボクが痛感したのは、時代を超えて残る古典の力です。
150年以上も前の哲学者の言葉が、まるで今日のインターネット社会を見通していたかのように、鋭く本質を突いてくる。この事実に、ボクはただただ驚嘆しました。
- 良書を選ぶ「目」を養うこと
- 流行や評判に流され、安易に本を選ばないこと
- 書評や他人の評価すら、一度は疑ってかかること
情報が洪水のように押し寄せる現代において、これらのメッセージの重要性は増すばかりです。
確かに、本書の文章は硬く、読み解くには時間と集中力が必要です。
しかし、その先に得られるものは、計り知れません。
もしあなたが、「最近、なんとなく本を選んでしまっているな」「読んでも何も心に残らないことが多いな」と感じているのなら、ぜひこの一冊を手に取ってみてください。
ショーペンハウアーの辛口で、しかし本質的な批判が、あなたの「読書」という行為そのものを見つめ直す、最高のきっかけになるはずです。
本当の意味で価値のある読書とは何か。この本を羅針盤に、改めて考えてみませんか。
それではまた。
ありがとう!